2007年5月17日 (木)

あわただしい日

今日は横浜線沿線に教えに行く日なのだが、朝からの激しい雨に不吉な予感がして40分早めに出た。バス停にたどり着く前にかなり濡れ、しかも寒い。靴下もびしょびしょ。鎌倉駅に着くと予感的中。横須賀線が30分以上遅れている。でも遅れているだけで止まってはいないようだ。いつもよりずっと早く出たので、余裕で着けるかも、とほっとしたののもつかの間、到着のアナウンスが入ったにもかかわらず、電車が入ってこない。どうも電車が小動物をはねたらしい。待つことおよそ10分、ようやく電車が来たのだが、大船に着く前にまたストップ。今度は前の電車の関係で駅に入れない、とのこと。待つこと15分。この時点でかなり気分が悪くなってきた。遅れた関係でかなり車両は混んでいるし、空気が悪い。でも危機的状況とまでいかないので、あまり気にしないことにする。

乗り換えの電車も遅れ、結局40分早く出て、到着したのは2-3分遅れ。まあ、不幸中の幸いともいえる。

こんな状況が起こるたびに思い出すのが、ジャワの踊りの先生。インドネシアではジャムカレット(ゴムの時間)といい、時間は柔軟性がある。つまりちょっと遅れてもまあいいじゃないか、という朗らかな国民性の表れでもある。しかし私の先生は非常に時間に厳格だった。有名な話なのだが、およそ60キロはなれたジョグジャという町からレッスンに来ていた女子大生のグループが、ある日バスの事故か故障かで、かなり遅れてしまった。彼女たちも先生は時間に厳しいことを知っていたが、不可抗力だ。当然許してもらえると思ったらしい。ところが先生は怒ってレッスンをしなかった。曰く「インドネシアの交通状況においてはバスの運行が遅れることは優に予期できることだ。ならば、なぜそうなることを考慮してゆとりをもって家を出なかったのか」

まあ、こんな先生なので、私たちも先生の家への到着時間にはとても気を使っていた。経験上9時にレッスンが始まる場合には8時57-8分頃(先生の家の時計で)に到着するのが望ましい。それより前だと、先生はいろいろ勉強をしていたりするので、その邪魔になる。それ以降だと、ぎりぎりでだらしない印象がある。

そのころ一緒に練習していたスイス人の友人と私は、バイクが壊れても、自転車がパンクしても、ベチャッ(輪タク)のおじさんが出払っていても、先生の家に時間通り行き着けるよう計算して家を出発する習慣ができていた。そして8時半ごろに先生の家近辺のワルン(軽い食事やお茶ができる場所)で集合し、お茶を飲んでからころあいを見計らって先生の家に入る。この作戦によってわれわれは先生の絶大な信用を得ることとなる(時間に関する限りですが)。

その後スイス人の友人が寝過ごしてレッスンに来なかったことが一度あるが、さすがに無罪放免になった。この経験からか、私は遅くなりそうになるときには予感がする。おかげさまで大きな遅刻はほとんどしたことがない。ジャワで習ったことは踊りが1でその他が9、と常に考えているが、これも「その他」のひとつかな。いずれにせよありがたいことです。

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2006年10月 1日 (日)

インドネシアの思い出

昨日はガムランの練習の前に日比谷公園で行われていた「グローバル・フェスタ」にいってきた。以前に何度かいったことがあるが、そのころに比べ近年は多数の団体が参加して、活気あふれる雰囲気が漂っていた。

参加団体の多くがNGOグループだ。本当に日本もNGOの活動が盛んになったな、と感銘を受けた。しかも活動地域と内容が多様化している。その中でもジャワ島中部で起こった地震の被災者を支援している団体が多く、ありがたく、そして頼もしく感じた。

私もインドネシアとの縁が深い。これからできることを少しずつ模索していこうと思っている。

さて、インドネシアといえば私のガムランの先生(故人)の息子さんが大阪に滞在している。それで彼が今週インドネシアに帰るので、先生の奥さんに手紙を託そうと思い、あわてて書いていたのだが、書いているうちに練習に通っていたときのことを思い出した。

ソロから先生の住んできたジョグジャは60キロほどしかないのだが、暑い中、猛スピードで小さな車を道の脇に追いやり、しかも対向車線上を走るバスに乗ってよく通ったものだ(最近では道が整備され、真ん中に仕切りがあるので、勝手に対向車線を走ることはできないらしい)。先生の家につくころにはくたくたになっていた。埃と排気ガス(ディーゼル)でのどはいがらっぽいし、顔はハンカチで拭くと、ハンカチが黒くなっている。

先生の家についても、なかなかレッスンは始まらない。疲れたでしょ、といってまずは奥さんがご飯を作ってくれ、それを先生と2人で食べるのが習慣だった。先生のうちのお米は国家公務員が安く買えるいわば配給米とでもいうものだろうか。このお米はかなりの割合で壊れたお米が入っている。そしておかずも質素なものだ。豆腐や大豆を発酵させたテンペ(これは最近日本でも手に入るようになってきた)。豆や野菜。先生はからだが弱かったので、サンバル(唐辛子のソース)をあまり食べてはいけない。「私はちょっとだけしかつかわないけど、たくさん食べなさい」と言う。先生は今日のサンバルは辛い、辛い、と文句を言いながら(今考えると文句というよりも、あまり食べてはいけないのに、という感じだったのかもしれない)食べた。何かカリカリしたものも一緒に食べなさい、といってクルプック(えびせんべい、こちらは日本でもおなじみ)を何度も何度も勧めてくれた。あまり、しゃべることもなくなり、二人で静かに座って食べることが多かったように思う。食事が終わると先生はタバコを吸う。体が弱いのだからやめればよいのに、これだけは譲れないらしい。タバコを吸えば、国に税金を納めることになるのだから、という理屈をこねるのがおかしかった。

だんだん暑い時間になり、こっちは汗を流しているのに、先生は寒い、寒いといって長袖のシャツを着ていた。先生は体が弱かったので、朝のスタートが遅い。ご飯を食べ終わってやっと稼動し始める、という感じだ。時間はたっぷりあり、ゆっくりと流れた。

今考えると、なんと平和な時間だったのだろうか。先生ももういないし、先生の家も地震で倒れてもうない。

ちょっと感傷的な気分になってしまうが、あの時の私にはあれが英語で言うならばGood old timeとでもいうのか、失われた些細な幸せだと実感するすべもなかった。こんな感じでレッスンがいつまで続くし、いつも先生は家にいて、週末になれば仲間が集まり練習をする。それが変わるとは考えられなかった。

でも無論悲しいことばかりではない。先生は海外のいろいろなグループ(アメリカ、オランダ、など)から招聘を受けていたのだが、体が弱くて、とうとう外国へは行けなかった。でも彼の3人の息子さんはアメリカもオランダも日本も、世界を股にかけて、とまでは行かないが、先生が招かれたのに行けなかったところに行って活躍している。先生の音楽はジャワから海を渡って世界に広がっている、そんな強い実感がある。そしてもうひとつ感じたこと:一秒一秒大切に生きれば、それが自分の宝物になるのかな、なんてね。

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2006年9月 8日 (金)

辛ーいお話 其の2

辛い、と言えば思い出すことがある。

それは私が初めてジャワに滞在したとき、今から15年以上も前になる。ジャワの食べ物の中でも一番好きだったのはナシ・プチェルだった。ナシとはご飯、プチェルはピーナッツソースだ。カレーライスに使うようなお皿にご飯を盛り、その上にゆでた野菜(もやし、ほうれん草など)を置き、ピーナッツソースをかけて食べる。ピーナッツソースは、サテやガドガドなどのソースよりも濃くて甘いのが特徴だ。これは炒ったピーナッツ、唐辛子、タマリンド(ちょっとすっぱい味が加わりグッド)、しょうがのような根、ライムの葉、椰子砂糖などを加えて、石臼で時間をかけてよく擂りペースト状にして作る。実際に食べるときにはこれをお湯で薄め、ソース状にする。

ソロのマンクネガラン王宮の南に中国系のおじさんが経営するレストランがあった。そこで毎日ナシ・プチェルを食べるのが私の日課だった。ここのプチェルのソースはその場でブレンドして作ってくれるのでとてもおいしいし、上に目玉焼きがのった豪華版だ。また経営者の中国系のおじさんは日本人にとても親切にしてくれた(概してインドネシアの中国系の人々は日本人に親近感を抱いている、東亜連合、とでもいうのだろうか)。その上このレストランはだだっ広くて、誰に邪魔されることなく、のんびりと通りを眺めながら食事ができる数少ない場所だった。おじさんは親切だったが、あまり私に話しかけるわけでもなく、暇そうに雑誌などを読んでいた。午後の平和な時間が流れた。

さて、最初に行き始めたときは、辛さを控えたとても甘いプチェルが出てきた。少々物足りなさを感じながらも私は完食した。次の日には、もう少し辛いプチェルが出てきた。なかなかいい感じだ。その後の一週間くらいはちょうどよい辛さが続いた。しかし、その後はだんだんと辛さが増してきた。さほど激辛を好むわけではない私は、少し苦痛に感じ始めた。でも食べられないほど辛いわけではなく、しかも辛すぎます、というのは敗北を宣言するような気もして、がんばって食べた。そうこうしているうちに、激辛になってきた。そのころの私は汗と鼻水をだらだら流しながら食べていた。このレストランは甘い飲み物も出していたので、氷の入った飲み物で火照る舌を冷やしながら食べた。

幸いなことに(?)、そのころになるとジャワの滞在も終わりに近づいていた。このバトル(?)は勝敗が決まらず、私の最初のジャワ滞在は終わった。

残念なことに、このレストランは私がジャワを去った直後に閉めてしまったらしい。私の友人や生徒を連れて行く機会には恵まれなかった。

今考えると、このころの私はジャワの生活習慣や食べ物に慣れようと必死で気張っていたような気がする。辛いものを食べられる、というのもそのひとつだ。決しておじさんは私に対してバトルを挑んでいたのではなく、多分「辛くて食べられなかったらかわいそうだな」と、気遣ってくれて、最初に甘めのを出したのだと思う。それで大丈夫そうだったので、少しずつ唐辛子を足していったのではないだろうか。辛いものを食べることで自分がジャワの生活に順応していることを証明しようとしていたのなら、私もおろかだった。

このほかにもどれだけジャワの人が親身に私に接してくれたのか、10年以上経って、やっと理解できることがたくさんある。マンクネガラン王宮の南側を通るとき、いつもこのレストランを思い出す。おじさんは元気だろうか。

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2006年8月20日 (日)

モスキート 日本 VS インドネシア

毎日蚊と闘っている。庭に出ると、待ってました、といわんばかりに多くの蚊が襲ってくる。でも日本の蚊はかわいいものだ。動きが遅いので、すぐパチンとできる。寝ているときも顔にとまった奴をパチッとやってしとめることができる。私はぼさぼさの癖毛なのだが、この間は髪の毛に絡まって、出れなくなり、ずっとうなっていた。かなり間抜けな蚊だ。

それに比べインドネシアの蚊はすごい。数はもちろんのこと、スピード、攻撃力、しつこさ、まるでボクサーのように優れた奴らだ。数の多さは残念ながら、インドネシアのインフラの不備にある。結果あちらこちらでよどんだ水が溜まっている。そこが格好の蚊の発生源だ。私はインドネシアに行き始めて20年以上になるが、車の数も増えたし、誰でも携帯電話を持つようになった。でも基本的に変わらないのは、水道、下水などのインフラの不備だ。

数の多さに加えて、しつこさも攻撃力にも優れているので、夜に寝るときには、部屋の中に殺虫剤をまき、電気蚊取り線香をつけ、体の露出している部分にはプロ仕様のローションを塗っていた。

インドネシアでは茶柱ではなく、蚊柱が立つ。特に夕方、黒っぽい洋服を着ていると、蚊の大群が集まり、まるで黒い後光のような、または背後霊のようなモワーッとした柱を形成する。踊りの練習をしていると、移動するごとに蚊柱もついてきて、見ている分にはなかなか面白い。

この数の多さなので、伝染病も媒介する。都市部ではほとんどなくなったものの、マラリア、そしていまだに大流行するのがデング熱だ。デング熱を媒介するのは黒白の蚊で、この蚊は午前10-11時ころを中心にして噛む。デング熱の厄介なことは、治療薬がないこと、子供や老人などがかかると深刻な事態になること、何度もかかると出血し、時として死にいたることさえある、ことなどだ。深刻にならなくとも、長い間熱が出て、非常に苦しむ病気だ。

私がかねがね疑問に思っていたことだが、インドネシア人は蚊に噛まれても、あまり赤くなったりはれたりしない。あまりかゆみもないようだ。これは免疫があるからなのだろうか?インドネシアの蚊に噛まれ、ぼりぼり皮が擦り切れるほど掻いて、そこが真っ赤に腫上るのは決まって外国人だ。

インドネシアの蚊のDNAもすごいが、インドネシア人もすごい。5月の地震の被害のため、まだ屋外で寝泊りしている人が多いが、いくら蚊に強いといっても、感染症が心配される。がんばってほしいものだ。

今朝テレビを見ていたら、地球温暖化に伴い、危険な蚊がどんどん北上している、とのこと。放置されたタイヤなどが格好の蚊の繁殖地となり、一年を通して繁殖するようになった、という記事も以前読んだことがある。デング熱の被害もどんどん北上していて、いま台湾で流行しているとのこと。こうなると日本上陸も時間の問題だ。日本人はあのキラー・モスキートーの威力をまだ知らない。是非とも対策をとるべき問題だと思う。

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2006年8月 9日 (水)

インドネシア料理サンバル・トマト

唐辛子をたくさん収穫したので、インドネシアのサンバルを作ってみた。サンバルとは唐辛子のソースで、いろいろな種類がある。ただ石臼で唐辛子をつぶして塩を混ぜただけのもの、変わったものではサンバル・テンペブスッというのがあって、インドネシアの納豆といわれるテンペ(納豆のようにねばねばしていない。最近では日本でも手に入るようになった)の発酵が進んだものを唐辛子と混ぜるものだ。

私が一番好きなのは、少しマイルドなサンバル・トマト(トマトのサンバル)。久々に作ってみた。唐辛子の辛さによって味が変わってくるので、数を調節したほうがよいだろう。うちのはまだ緑でちょっとマイルドなので、10本使った。もちろん赤唐辛子でも、辛いものマイルドなものをミックスしてもおいしい。

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材料:    唐辛子(うちの唐辛子はやせっぽでしかも曲がったものが多い)

              にんにく(3個くらい)   

              たまねぎ(1/2個)

              長ネギ(1/2個)

トマト(大2-3個、今回はミニトマトと小さめのトマトを使った、その場合はもっと多く)

              サラダオイル(たっぷり)

              砂糖(小さじ2)

              塩(小さじ1)

作り方:

1.たまねぎ、長ネギをみじん切りにする。にんにくは皮をむく。唐辛子は輪切りにする。辛い唐辛子の場合は、種を少し取り除く。

2.サラダオイルをたっぷりすぎるくらい、小さななべに入れ、中火でたまねぎ、長ネギ、にんにくをゆっくりといためる。いためる、というより、油の中で煮る、という感じ。

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3.にんにくがホクホクしてつぶせるくらいになったら、唐辛子を入れ火を通す。

4.一度火をとめ、すり鉢に入れ、ペースト状になるまでつぶす(この工程は面倒くさかったらパス)

5.もう一度なべに戻し、砂糖、塩を入れる。

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6.トマトをぶつ切りにしていれ、完全に水を飛ばし、ペースト状になるまで、いためる。15分くらい。オイルが上に浮いてきたら出来上がり。塩と砂糖で味を調節する。

とても油っぽいので、さめて油が分離してきたら、それを捨てると良い。チキンなどのソースにしても良いし、私はこのままご飯に乗せて食べるのが好きだ。また水気を飛ばしてあるので、2-3日保存できるのも魅力です。

暑い時期には最適。試してみてください!

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2006年7月14日 (金)

ジャワ中部地震について2

456brobudur 何度か書いてきたが、私はインドネシア中部ジャワの舞踊を学んできた。中部ジャワといえば、5月末に大地震が起こった場所だ。被害が大きかったジョグジャ地方は、私が住んでいたソロからおよそ60キロ離れた場所で、この2つの地域の間に、世界遺産の仏教遺跡ボロブドゥールやヒンドゥー教の遺跡プランバナンがある(このプランバナンも地震の被害を受けた)。

ジョグジャは私にとっても縁深い場所だ。私が最初にジャワの舞踊と音楽に触れたのはハワイ大学にいるころだったが、そこの教授がジョグジャ出身の先生だった。最初に習ったのもガヤ・ジョグジャと呼ばれる、ジョグジャスタイルの踊りだった。ソロの踊りに転向してすでに長いが、ジョグジャの踊りは最初に習ったものなので特別な思い入れがある。

ソロに住み始めても、ジョグジャに住んでいる先生に週一回ガムランを習いにいった。

そのジョグジャが地震によって大被害を受けてしまった。ジョグジャの人々は復興への道を歩み始めたものの道のりはまだ長い。ジョグジャは文化と伝統の町だ。文化活動が再開されない限り、この町の復興は完全なものとはいえない。

そんな中、さまざまな人々が支援活動を行っている。私が主宰するグループ「サンガール・パムンカス」のブログに支援活動に関する情報、そして募金のお願いを掲載した。

ジャワの地震に関する情報は新聞やニュースで報道されなくなってしまいました。でも彼らの戦いは続いていきます。どうか長期的な支援をお願いいたします。詳しくは以下をご覧ください。sanggarpamungkas.blog60.fc2.com/blog-entry-33.html320prambanan_1

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2006年6月18日 (日)

キャンドルナイト夏至ライブ-ガムランの夕べ-

昨日は踊り、ガムランと練習三昧だった。極め付けが水曜日に目黒のアサンテサーナというフェアトレード、コミュニティートレードのショップ&カフェで小さなライブをやるのでその練習。終わると11時近くになっていた。

アサンテサーナでは去年スマトラ沖地震津波のチャリティーライブとして踊りの公演を行ったが、今回は踊りではなく、小編成のガムランの演奏会だ。

演奏するのは4人。大編成のガムランとはまったく違う静かで幻想的な音がする。時間がゆったりと流れるように音楽も滞りなく動くのが理想。練習の成果が皆さんに伝わることを願っています。

季節の節目に体と心をリセットするのはいかがでしょうか?

6月21日(水曜日) 19:00-20:00(18:30開場、食事)

場所:アサンテサーナカフェ

参加費:2800円

☆インドネシア雑穀風プレート、ドリンク、デザート付き。

詳細:http://www.p-alt.co.jp/asante/archives/sana/shop.htmlMso4ea07

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2006年6月 7日 (水)

srimpi的ガーデニング

ジャワ舞踊では花をふんだんに使う。特にジャスミンはムラティと呼ばれ、いろいろな用途に使われる。髪はもちろんのこと、ハワイのレイのように長く連ねてネックレースのようにしたり、ネットのように編んだり、クリスと呼ばれる剣の飾りにしたり、さまざまな用途がある。その香りは新鮮で清楚で、踊っていると気分が良くなるものだ。ジャワではジャスミンのほかに、カンティルと呼ばれる花もつかう。これは中国では人民服のボタンのところに飾ったり、アジア各地で使われている。日本では銀香木と呼ばれるらしいが、なかなか手に入らない。ジャワを含むインドネシアでは町に必ずパサール・クンバン(花市場)があり、儀式用の花、踊り用の花は簡単に手に入る。踊る前日にパサールのおばさんに踊りの種類を告げて頼んでおくと、当日にきれいに作っておいてくれる。

ハワイで踊りをやっているときには、同じ熱帯なので、似たような花がたくさん手に入った。ジャスミンはピカケと呼ばれ、レイにするととても高級。お値段もぴか一で高く、雨季になると手に入りにくかった。カンティルはとても香りが強く、夜歩いているとどこからともなく甘いにおいが漂い、とても幸福な気分になったものだ。ハワイはレイメーキングが盛んなので、踊り用の花も自分たちで作っていた。

日本に帰ってくると、生花を使って踊ることが不可能になった。生花を使うか使わないかでは踊りの質も変わってくるような気がしていたが、ともかく忙しさもあって、頭の隅のほうに押しやってしまったいたような気がする。それが去年ふと思いつき、買うことができないのならば自分で育てればよいのだ、という至極簡単な結論に行き着いた(なぜもっと早く気がつかなかったのか不思議である)。子供のころは植物を育てることが好きだったし、不思議と何でも育てることができた。それからはネットで調べる毎日が続き、かなりの数の熱帯植物が手に入った。それ以外にも簡単に育てることができる花を育て使おうとしている。

しかし…自然はあくまでも自然で、人間がコントロールできるものではない。花に咲いてほしい日(公演がある日)と実際に花が咲いてくれる日がなかなかマッチしないという現状にぶち当たり、なかなかうまくいかない。理想はいろんな人に育ててもらって、公演がある日に花をかき集めることなのだが、なかなか賛同者が集まらず(皆、私を除いて忙しい人たちです)実現するに至っていない。

こんな状態だが、私が育てている植物を少しずつ紹介していきます。

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