2007年8月10日 (金)

華麗なる一週間(ピアソラ、そしてジャガイモとオクラのサブジ)

カレーのほうはあまりたくさん作ってないものの(なにせ暑くてあまり食欲がないので)、のんびりした一週間をすごしています。

今日は午前から鎌倉駅周辺で用事をしていたのですが、だんだんローカル人口と花火見学人口が入れ替わり始めたので早々に引き上げてきました。

さて、優雅な午後は大好きなピアソラを聞こう。CDをすべてなくしてしまったので鎌倉で買ってきた。セレクションは少なく、ベストヒットみたいなCDを買った。

「音楽をやっているので、いつもいろいろな音楽を聴いているのでしょうね」とよく言われる。ところが最近はほとんど聞かなくなった。聞き流すことができないので、聞くと非常に疲れる。そして苦痛に感じる音楽も数多くある。なので普段は「沈黙は最高の音楽」と思いながらぼけーっとしているほうが好きだ。

聞いて楽しむ、ただ楽しむために聞く、という音楽は数少ない。その数少ない中のひとつがピアソラだ。研ぎ澄まされた感性と情感あふれるメロディー、エキサイティングでスリリングな演奏。どれをとってもすばらしい。曲の題名とか、編成とか、ぜんぜんわからないけれど、知ろうとも思わない。ピアソラの音楽は心のさびをとるもので、批評したりするものではないからだ(私にとっては)。

なんか、リッチな日々を送っている私ですが、欲を言えば映画が見たいな。

アルモドバルの「ボルベール」かデビッド・リンチの「インランド・エンパイア」にちょっと心を惹かれています。もうご覧になった方、感想を教えてください!

さて、本題のカレーだが、今日は「ジャガイモとオクラのカレー(サブジ)」。昨日までのカレーと違って、今回は汁気が多いカレーではなく、水分を加えない、炒め物のようなカレーだ。こういうのをサブジと呼ぶ。

まずはマスタードシード(あれば)を熱した油に投入。油の量は大匙12杯。熱しすぎるとすぐに焦げ付くので、火加減に注意する。千切りしたしょうが(3センチ4方)とみじん切りしたにんにく(2個)を加え、香りが出るまでいためる。ジャガイモ(生のまま)一個を小さく(2センチ四方)くらいに切り、焦げ付かないよう細心の注意を払いながらいためる。ジャガイモに8割がた火が通ったら(10分くらい)、カレースパイス(小さじ2杯くらい)と唐辛子23本、塩をいれ、香りを立たせる。

トマト(生)をざく切りにして、軽く炒め、少し水気を飛ばす。

輪切りにしたオクラ1パックをいれ、鍋にふたをして、野菜から出る水分で調理する(5分くらい)。

香菜のみじん切りと、レモンの絞り汁をかけていただく。

ポイント:とにかく火加減が重要。煮物というより、炒め物なので、どの時点でも焦げ付いてしまうと、おいしくない。ジャガイモはゆでたものを使うと崩れるので、生のものを小さめに切り、焦げ付かない程度の温度で炒めると、しっかりとした食感が楽しめる。トマトも生のほうが、しっかりとした食感が楽しめる。

003

| | コメント (0)

2007年3月13日 (火)

ピアノコンプレックスだった私その2

先日ピアノのことを書いたのですが、結構いろいろな人から感想や意見が来ました。音楽教育って難しいなー、と感じます。親は親で子供によかれ、と思っているし、子どもは「押し付け」に対する反発とか、自分を認めてもらえないもどかしさを抱いているのでしょう。

どちらがよい悪いではなくて、音楽って何?ということをもっと考えてみたほうがよいんじゃないかな。それに対する自分の確固とした意見や信念があれば、子どもにも伝わると思うのだけど。反対にそれが自分の思い込みだったり、漠然とした情操教育のためだったり、周りに流された結果だったり、自分がかなえられなかった夢の押し付けだったり、要は子どもより、親の「都合」やエゴで音楽を習わせた場合、かなりの確立で失敗する、というのが私個人の長年の観察結果です。

子どもだって信念を抱いています。でも往々にしてそれをうまく言葉に表せないので、「このこはただ怠けたいだけだ、練習逃れの口実だ」と受け止められてしまう場合もあると思います。自分の場合もそうでした。音楽に対する漠然とした思いはあったのですが、「じゃあそれは何なのよ?」と聞かれてもはっきり説明できない自分があり、同時に今受けている音楽教育は絶対自分の考えと相容れない、という確信もあり、伝わらないもどかしさ、劣等感、怒り、そんな交じり合った感情を抱いていました。それがいつの間にか音楽に対する(特に西洋音楽)感情に変わってしまったことに自分で驚きと悲しさを覚えました。

今振り返って考えてみて、音楽って何かな、という問いにずっと私が抱いてきたのが、音楽のジャンルや枠を超えた究極の自己表現、です(もちろん子どものころはこんな表現ではなかったけれど)。紆余曲折はあったけれど、今でもこんな音楽って可能なのかな、と考えています。死ぬまでにちょっとでもそういう音楽ができたらいいなー、とこれまた漠然と思っています。

それにしてもよく聞かれるのは「音楽やっているから楽しいでしょう?」とか「心の慰めになるでしょ」というもの。私はあまりピンとこないのです。なんか私根本が間違ってる?

にほんブログ村 子育てブログへ

| | コメント (0)

2006年10月 9日 (月)

珍しくロックの話でも――The Doors

アメリカに行くと日本と価値観が逆転していることが感じられる体験をする。そのひとつはロックグループの評価の差だ。日本ではあまり有名ではないのに、アメリカでは伝説的なグループが数多くある。その中でも60年代に活躍した「The Doors」はいまだにアメリカでは熱狂的なファンを抱えるグループのひとつだし、アメリカ文化に影響を与えた、という点では、もちろん私的な感想だが一番重要なグループともいえるのではないか、と思う。

なぜ急に「The Doors」のことについて書いたかというと2晩前にBSで特集をやっていたからだ。私の見たことがないような映像がたくさん出てきて、感動した。まず40年という時間を経ても、ヴォーカルのジム・モリソンの強烈なオーラは矢のように飛んでくる。ジム・モリソンのカリズマ性は今でも語り継がれるところで、彼は1971年、パリで死亡したのだが(多分ドラッグの打ちすぎで)、多くのファンの間ではアメリカ政府の陰謀説、はたまたアフリカのどこかに身を隠していてまだ生きている、などといううわさがささやかれていたらしい。

この番組を見ての感想だが、彼らは当然ロックグループに分類されるものの、ライブの映像を見ると前衛実験的パフォーマンスグループ、という感じがする。これはジム・モリソンもキーボードのレイ・マンザレクも映像の世界に興味を持っていたからかもしれない。しかもジム・モリソンは歌手としてはもちろん、もしかしたらそれ以上に詩人としての評価が高い。時として彼はステージ上で詩の朗読をしているようにも見える。

それから音楽的なことだが、レイ・マンザレクが「The Doors」の音楽を支えていたような気がする。もちろんあの特徴的なオルガンやキーボードの音はマジシャンの様でもあり、催眠術師のようでもあり、まぎれもなく「The Doors」のトレードマークだが(猫背でオルガンに覆いかぶさるような弾き方も特徴的)、それ以上にジム・モリソンの詩人としての欲求を音楽的に表現していると感じた。

日本では「The Doors」というと、いくつかのヒット曲を残し、ジム・モリソンの死とともに、散っていったグループ、という印象が強い。オリバー・ストーンが映画を作ったのでこちらを見た人も多いのではないだろうか。もしかしたら言葉の壁もあって、ジム・モリソンの詩が日本に伝わりにくい、ということもあるのかもしれない。ネットでよい情報源を探したが、あまり見あたらなった。大まかなことはWikipediaに載っている。

おまけだが、私は大学で民族音楽を勉強した。民族音楽の定義だが、一応西洋古典音楽を除くすべて、となっている。したがってロックやポップ、流行歌、などを取り上げることも多い。私も「ロックの歴史」なんていうクラスとった。楽しかったのはいうまでもありません。

| | コメント (0)