2008年7月 2日 (水)

聖母ではないお母さんへ:チョコレートは子どもと均等に分け合おう!

わが子を愛するレッスン「傷ついた子ども」だった両親へ

という本を読んだ。著者はマーガレット・ラインホルドという心理療法の専門家だ。

親の子どもに与える影響(特に悪影響)は限りなく強く、子どもの潜在意識に深く刻まれる。そのような例をこの本では数多く紹介している。それだけで親は(私は)フリーズしてしまいそうだが、同時に肩の荷が下りるような気持ちにもなったので皆さんに教えたいと思う。

その部分とは:

トレッキングしている親子が一休みしている。母親がチョコレートを人数分均等に切り分けて、親子で同じ大きさのチョコレートを食べた。

それだけのことなのだが、著者はそこに健全な親子関係を見て取った。

つまり、著者によると、母親はチョコレートくらい子どもに譲るべきだ、という考えは間違っている、というのだ。母親は子どもの犠牲になって当然、という考えは日本では根強い(このようなシチュエーションの場合母親は子どもから「ママ、食いしん坊」、そして祖母からは「子どもと争って大人気ないわね」といわれるだろう)。

母親が本当の聖母で、見返りのない愛情を子どもに垂れているのならばまったく問題はないのだが、そのような聖母は数少ない。普通は「私だって食べたいのに」と思いながら、母親だったら子どもに食べさせるのが当然だ、と思いながら子どもにチョコレートを譲っている母親の心の中はどうなっているだろうか。「ママだってチョコレート大好きなのに、あんたに譲ったのよ(食べ物の恨みは恐ろしいのだ)」これがさらには「ママはあんたのためにどれだけの犠牲を払ったか知っているの?」になり、つまりこれは「だからあんたもママの言うとおりにするのが当然よ」「老後の世話をするのは当然」とママの要求はエスカレートするわけです。つまり母性愛を垂れていると見せかけて、密かに、しかし当然のように見返りを期待するのです。子どもは「生んでくれって頼んだ覚えはない」って言うしかないですよね。

子どもに罪悪感を植え付けるのは比較的簡単で、自分は崇高なことをして、罪悪感をべったりと子どもに塗りつけているのだったら、子どもがかわいそう。それならば、お母さんもチョコレートを要求するほうが、親子ともども気が楽でしょう。お母さんは聖母にならなければ、というプレッシャーから開放されるし、子どもは「ただより高いものはない」チョコレートを知らず知らず受け取ることもないのだから。

強調するが、子どもに対して何もしてやらなくてはいい、といっているのではない。当然ながら子どもに割く時間は大きく、自分の時間がもてないことも多い。ただ親子ともども「母親は見返りのない愛を24時間垂れている」という聖母伝説が刷り込まれると悲劇的な結果をもたらすことがある。母親は「子供を愛すのが当然なのになぜ否定的な感情(子どもがかわいくない、嫉妬心や競争心、等)を抱いてしまうのだろうか」と思い悩む。思い悩むならまだしも、自分は聖母と信じきっていて、自分の気づかない部分で子どもにプレッシャーをかけてしまっていることは多くないだろうか。子どもは親から攻撃的なメッセージを受けているような気がして(親が子に対して攻撃的な感情を持つはずはないのに)、困惑する。結果、自分に罪悪感や劣等感、そして親に対して攻撃的な感情さえ持つ。

それならば、親といえど生身の不完全な人間なのだから否定的な感情を持つことがある、ということを親子共々受け入れるほうが良くはないだろうか、とこの本は提案している。

例に挙がったトレッキングしている親子は不健康な力関係に陥ることなく、親子対等な関係を築いている。そして聖母になる前に親の自己確立、子どもからの自立が必要じゃないかな、と私は思う。

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2007年4月 8日 (日)

自由教育の幼稚園って?その2

私は何も考えずに自由な幼稚園を選んだのだが、実際通い始めてひとつ気になることがあった。それは無駄な時間が多い、ということだ。散歩に出発するときにも時間がかかる。何かの行事のときも子供たちは「あーだ、こーだ」と議論してすぐに始まらなかったり、なかなか進まないことがある。子供たちが自分たちで考え作ったものを発表するときも、必ずといってよいほど混沌が支配する時間がある。

最初はこれに苛立った。こういうところは軍隊式にすればよいのに、と思った。でもしばらくするとまったく見方が変わった。そもそもすべてのものは(宇宙も)混沌のなかから生まれてくるのではないか。だから何かが生まれるにはカオスが必要だ。子どもはカオスの中から秩序を生み出していけばよいのではないか、と思うようになった。

「宇宙の原理」などというと大げさかもしれないが、実際カオスの中から何か形ができるプロセスをつぶさに見るのは実に面白いし、年齢とともに作品の完成度が高まっていくのはなかなか感動的だ。私も子どもたちの作品を見てインスピレーションが沸いてくる。なにせアイディアの宝庫なのだから。

大人はカオスを嫌い、秩序を好む。だがその秩序もカオスの上に立っていることを忘れがちだ。だからカオスが支配する時間を「無駄」だと考える。でもこの一見「無駄」な時間が子どもにとって必要なのではないかな(多分大人にとっても必要なはず)。

あるお母さんはH幼稚園を「振り付けのない踊り」と称した。いいたとえだな。中身が空っぽな箱物じゃなくて、一から自分で道筋を作っていく、これって今の日本社会が抱える課題と同じではないかな、と思う。

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2007年4月 6日 (金)

自由教育の幼稚園って?

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今日から幼稚園が始まった。去年はな組だったKはかぜ組になった。以前も書いたとおり、H幼稚園は縦割りのクラスだ。その中で一番年上になれてKは俄然がんばっている。

さて、「自由教育の幼稚園ってどう?」とよく聞かれる。幼稚園のときは楽しそうだけれど、小学校に入るとギャップが大きくて大変、とも言われる。私も他の幼稚園に子供を預けたことがないし、感覚的に自由教育の幼稚園にしか興味はなかったので、あまり客観的に見たり比較することができないが、一年間通ってみての感想をつづってみたいと思う。

H幼稚園は方針としても、実際の生活もかなり子供の自主性にまかされている。とはいえ、基本全員参加のプロジェクト、イベントが数多くある。思い返せば餅つき、子供が考える行事、焚き火、芋ほり、草木染、最近では卒園パーティーなど。

だが特にそのような予定がないときは、朝と帰る前にクラスで集まって挨拶をしたり、本を読んだり、歌を歌ったりするほかは、かなり自由な時間をすごしているようだ。一日中黙々と工作や縫い物やものづくりしている子ども。しばらく集中して何かをやっていると思ったら、急に走り出したりふざけだしたりする子ども(どちらかというと男の子が多い)。お花や植物ばかり集めている子。一心に砂に水を流している子。一人で遊ぶ子。仲間で遊ぶ子。良くも悪くもその子の特徴が顕著に見える。そしてその集中力には敬服する。「個性」という言葉を使ったらありきたりで真実味がないけれど、本当に一人一人違う個性を授かって生まれてきたんだな、とつぶさにそして理屈なしに感じる。そうすると自分の子どもだけではなく、どの子どももユニークで面白い存在となるから不思議なものだ。それはほかのお母さんも同じで「今日はKがこんなことをしていたよ」とか「Kは○○だよね」などといわれることがあり、自分の子どもの新たな面を発見するきっかけとなる。

最近教育に関するアメリカ発の文章や論文にメタコグニションという言葉が頻繁に使われていることに気づき、小学校の先生をしているアメリカ人の友人に聞いてみた。彼女いわく、自分の性格や傾向性を知ることによって、押し付けの学びのプロセスではなく、自分で自分の学びのプロセスを作ったり選択したり、自らを導くことができる能力だということだ。私の理解が間違っていなかったら、等身大ではなく、一段階上から自分を客観的に見る能力のことだと思う。アメリカではこの能力の重要性が叫ばれている、という。

自由教育のよいところは個性を存分に発散させることによって、周囲の人(そして自分自身)がよき理解者になり、その子どもの性質(長所も短所もひっくるめて)を十分踏まえて指導できることだと思う。(続く)

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2007年3月13日 (火)

ピアノコンプレックスだった私その2

先日ピアノのことを書いたのですが、結構いろいろな人から感想や意見が来ました。音楽教育って難しいなー、と感じます。親は親で子供によかれ、と思っているし、子どもは「押し付け」に対する反発とか、自分を認めてもらえないもどかしさを抱いているのでしょう。

どちらがよい悪いではなくて、音楽って何?ということをもっと考えてみたほうがよいんじゃないかな。それに対する自分の確固とした意見や信念があれば、子どもにも伝わると思うのだけど。反対にそれが自分の思い込みだったり、漠然とした情操教育のためだったり、周りに流された結果だったり、自分がかなえられなかった夢の押し付けだったり、要は子どもより、親の「都合」やエゴで音楽を習わせた場合、かなりの確立で失敗する、というのが私個人の長年の観察結果です。

子どもだって信念を抱いています。でも往々にしてそれをうまく言葉に表せないので、「このこはただ怠けたいだけだ、練習逃れの口実だ」と受け止められてしまう場合もあると思います。自分の場合もそうでした。音楽に対する漠然とした思いはあったのですが、「じゃあそれは何なのよ?」と聞かれてもはっきり説明できない自分があり、同時に今受けている音楽教育は絶対自分の考えと相容れない、という確信もあり、伝わらないもどかしさ、劣等感、怒り、そんな交じり合った感情を抱いていました。それがいつの間にか音楽に対する(特に西洋音楽)感情に変わってしまったことに自分で驚きと悲しさを覚えました。

今振り返って考えてみて、音楽って何かな、という問いにずっと私が抱いてきたのが、音楽のジャンルや枠を超えた究極の自己表現、です(もちろん子どものころはこんな表現ではなかったけれど)。紆余曲折はあったけれど、今でもこんな音楽って可能なのかな、と考えています。死ぬまでにちょっとでもそういう音楽ができたらいいなー、とこれまた漠然と思っています。

それにしてもよく聞かれるのは「音楽やっているから楽しいでしょう?」とか「心の慰めになるでしょ」というもの。私はあまりピンとこないのです。なんか私根本が間違ってる?

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2007年2月27日 (火)

幼稚園での講演会

昨日幼稚園で講演会があった。演題は「気持ちが通い合うとは」というもの。講師の滝坂信一先生は、大学の講師をしたり、障害者教育にかかわったり、乗馬療法(って言うのかな)も実践されている方。この多彩な経歴ゆえ、本日の演題がどのようになるのかまったくわからない。お母さんたちも興味津々。

まず、滝坂先生の柔らかな表情と語り口に、経歴を見て抱いていた「お堅い」イメージがいっぺんに溶け去った。

そして最初にやってくださいといわれたことは、2人一組に向かい合って座り、右膝をくっつけ合い、互いの右手を合わせ、目をつぶり手で押し合う、というもの。皆何がなんだかわからず、ちょっと緊張しながらやってみる。最初はちょっと気恥ずかしい。それでもまだ毎日のように顔をあわせている仲間だからよいものの、知らない人とだったら絶対やだな、など考えながらやってみる。

次に相手を変えてもう一度同じことをやってみる。相手が違うと手の感触も違うし、押したり引いたりすぐタイミングも違う。でも2人目ということもあり、ちょっと心地よさも感じる。

2回目が終わり、皆で意見を出し合う。「手が暖かかった」「最初は緊張した」「最初に押してよいのか、引いたほうがよいのか、躊躇した」「自分がイニシアティブをとる場合とそうでない場合があった」「手を合わせてみて、自分が抱いていた相手の印象と違う感じを受けた」等々。

この後滝坂先生のお話があったのだが、「手合わせ」を体験したことで、和気藹々とした雰囲気が広がり、完全に緊張が解けた気がする。

さて、お話の内容だが、この「手合わせ」を体験することによってわかるように、人間というものは他人の気持ちを推し量ったり、コミュニケーションを取れる能力をだれでも持っている。そしてコミュニケーションの基本は体の接触によるもので、これは子供が胎児のころから培われてきたものだ。スキンシップの重要性の根拠はここに見られる。

言葉以前に培われたコミュニケーション能力なので、言葉と体が矛盾していると、子供に相反するメッセージを送ることになり、それが子供の不安をあおることとなる。つまりただ抱っこしたりハグすればすべてが解決するわけではない、ということだ。

ここでからはお母さんたちの質問を交えて、実践的なアドバイスが始まる。心穏やかでないときに子供がまとわりついてきたり、スキンシップを求めるときはどうすればよいか、という質問に対して、2-3歳にもなれば言葉で補足をすれば理解できる。つまり「お母さんはちょっと疲れたから、今は休ませてね」とか、反対に「お母さん疲れているから、パワーくれるかな」などと自分の状況を説明して理解してもらう。それによって、子供も自分の行為によってお母さんを元気付けることができる、ということがわかる。

そして話は介護に。介護という行為にも「抱く」ことは不可欠だ。滝坂先生も親の介護をしてみて、親との関係がまったく変わった、とおっしゃった。「皆さんもご両親を抱いてみてください」という言葉に「えー、無理」という声も上がる(私もその一人)。

日本の文化においては体が触れ合うということを極端に嫌う傾向がある。特に男性は。介護の問題になったときに、いやでも他人に自分の体を預けなければならない。体の接触を嫌ったり、自分の体を他人に見せることを嫌がったりすることは、介護をされる上で苦痛だし、屈辱的なことだろう。

最近では抱っこ療法もあるので、ずいぶん意識が変わってきているとは思うが。文化の問題としても考えたほうがよいのかな。とにかく楽しく、気持ちが暖かくなる 講演会だった。

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2007年2月12日 (月)

H幼稚園でのガムラン・プロジェクト(とうとう明日本番!)

最近ブログの更新頻度が落ちているが、このところこのコラボプロジェクトの練習と準備で忙しかった。金曜日には最初で最後で唯一しかし不完全な通し稽古を行った。時間を計ってみるとちょうど30分。幸先よい感じ。しかも髪とメークをしてみたので、インドネシア人になりきりやすい、という意見がでた。演劇をやっているお母さんに道化役のメーク係になってもらったが、イメージどおりに仕上がってうれしい。観音様のメークは顔を金色にして、なかなかリアル。

この幼稚園のお母さんたちは劇や踊りに出演することには慣れている。でも今回はインドネシアの音楽と動き、そして衣装ということもあって、なかなかイメージがつかみにくかったと思う。ぎりぎりになって、あー、なるほどね、という声が聞こえ始めた。

話は前後するが、前半は園児たちにガムランの音を聞いてもらい、後半は劇仕立てになっている。前半の歌のほうだが、こちらはかなり完成度が高くなった。アンクルンの音もとても心地よいし、声も出るようになった。

後半のストーリーだが、お寺の小僧さんがなれない生活の中で落ち込んでいるときに、観音様(慈母観音という設定)の像を見て、お母さんを思い出す。ガムランの音がなると不思議なことに観音様が動き出して、踊る。そして仏像がいつの間にかお母さんに入れ替わり、ほかのお母さんたちにも参加してもらい、ボンダンという赤ちゃんを抱っこしたりあやしたりする踊りを踊る、というもの。この踊りが難しかったようだ。私もそれを心配してドロップアウトOKにしてあったにもかかわらず、だれもギブアップしない。結構子沢山の人もいるのに、根性あるなあー。

衣装のほうは多少縫わなければならないものもあって、ちょっとしんどく思っていたのだが、作りかけのものを金曜日に幼稚園に持っていったら、手の空いた人がちくちく縫ってくれ、帰るときには仕上がっていたのでうれしいびっくり。ピーターラビットのお話に「グロースターの仕立て屋」というのがあるが(病気で倒れてしまった仕立て屋さんの代わりに、ねずみが洋服を仕立ててくれた、というお話)、その仕立て屋さんになったような気分。縫い仕事にちょっと気がめいっていたので、本当にありがたかった。

後は細かい作業が多少残っているし、午後にランバンサリに行って、最後の練習。

あっ、そうだ、後ひとつ大切なことをやり残していた。それはタイトルを決めること。暫定的に「不思議な楽器がやってくるよ」にしたのだが、きっとぴったりのタイトルが見つかるだろう、と思っていた。でもそこまで考えるゆとりがなく、今日まで来てしまった。これは明日までの宿題。

怒涛の1ヶ月だったけれど、今晩は成功を祈って寝ようと思います。

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2007年2月 1日 (木)

幼稚園での講演会

日にちは前後してしまうが、幼稚園で講演会が行われた。例年絵本作家の先生を招いてお話を聞くのだが、今回は絵本作家の編集者として活躍されている後路好章さんをお招きした。編集長って結構大変な仕事ではないか、と考えていたが、お話をお聞きして、大変なのは大変なのだが、その大変さが私の考えていたものとまったく違っていることがわかった。

後路さんは、あるとき擬音語擬態語の面白さに目覚め、擬音語擬態語を使った絵本を作ろうと努力する。そのきっかけが谷川俊太郎の「もこもこもこ」だ。しかし当初後路さんは、この本の魅力に気づかなかったという。しかしこの本が子供の間で人気があるということを聞き、そして誰かに読んでもらったときの面白さをつぶさに感じ擬音語擬態語の可能性を探ろうとする。しかしそこからが大変。保育園に行って子どもをつぶさに観察する。そして子どもと同じ目線で見、考える努力をする。擬音語、擬態語はもちろんのこと、発達心理学や言語学も学ばれる。とにかく徹底している。

そして本作りも妥協を許さない。作家の方々とも納得ができるものができるまでとことんやり合い「厳しい編集者」というレッテルを貼られる。

そんな努力の賜物がアリス館から出版されている「ことばであそぼ」シリーズだ。

お話を聞いていて、これだけの努力と思いがこもって一冊の絵本が出てくるのだから、もっと読むほうもその思いを受け止めなければな、と思った。

その思いがこもった本をKに読んでみた。擬音語、擬態語のみでストーリーができている「ぷちぷち(ことばであそぼ3)」だ。あまりいろんな種類の本を読みたがらないKだが、大うけ。最初は聞いていたが、2回目から自分で擬音語を作って参加するようになった。ことばの音楽遊び、という感じだ。なるほどこれは面白いわけだ!と私も納得しました。

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2007年1月31日 (水)

ガムランプロジェクト(経過報告その2)

H幼稚園は超多忙。いろいろなことが起こっている今日この頃です。その中に埋もれてなかなか練習が進まない状態です。

さて、今週の日曜日にもう一袋(?)アンクルンを借りてきた。これで全部の音がそろったので、音別に色分けした。本当はいろいろリズム遊びをしたかったのだが、なにせ練習時間が足りない。みなはアンクルンを弾くのが楽しいようなので、アンクルンを和音で入れることにする。音はさわやかで、とても素敵な響きがする。厄介なのが「川で歌おう」の歌詞。3番まであるのだが、これがなかなか覚えられない。私も実は覚えていない。そのせいだと思うが歌声がはっきり伝わってこない。これは改善しなくては。

さて、踊りの練習のほうだが、こちらもなかなか時間を取れない状態。といっていても始まらないので、集まれるときに少人数でも、短時間でも練習しよう、ということになった。踊り手は8人。歌とアンクルンに加わる人は9人の予定。

もうひとつ大変なことは当日の着付けとメーク。インドネシアの衣装は上がぴたっとしたレースのブラウス。下はバティックの一枚布。みな初めてなので、イメージがつかめないみたい。当然だけど。それでしょうがないので、絵をかけない私が絵をかいてプリントにして配った。幼稚園からのお知らせもほとんど手書きなのだが、だんだんそれがうつってきた。息子のKに「ママって絵が下手だね」といわれたけど、そんなことにめげているゆとりはないのだ。

衣装は基本的に私の持ち物を貸し出すことになった。インドネシアのブラウス(クバヤと呼ばれる)はすべてオーダーメードでほとんどが私のサイズで作ってある。何着かお母さんたちに着てもらったが、ラッキーなことにサイズの問題はなさそう。下は一枚布なので、最初から問題はない。10人以上の着付けなので、私一人ではどうにもならない。どうにか事前に講習をしなければならないが、とにかくやることが山積みで間に合うかどうか。

メークについても、H幼稚園のお母さんたちは普段あまり化粧をしていない(私もすっっぴんに近い状態だが)。そんな彼女らにステージメークを施すのは大変。日本はナチュラルメークが主流だが、インドネシアのメークは厚い、色が濃い、派手。日本が引き算のメークだとすると、インドネシアは足し算のメークだ。なれない人にはかなりの違和感があるだろう。

そんな中順調に進んでいるのが、道化2人の台本の読み合わせ。まだ完全にせりふは覚えていないが、とてもよい感じに仕上がっている。この二人が骨格を作るわけだから、これだけしっかりとできていれば安心です。

問題山積だが、よく考えれば何かをゼロから始めるときっていつもこんな感じかな。私は昔から舞台のことを考えるのが好きで、考え始めると次々とアイディアが浮かんできて、夜も眠れなくなる。もちろん浮かんだアイディアで実現までこぎつけるのは5%くらい。でもその5%を最大限に広げるのが腕の見せ所なのではないかな。

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2006年12月31日 (日)

K画伯ー5歳の誕生日

Kは今日5歳になる。思い起こせば、身の引き締まるような寒い日だったなー。空は雲ひとつない青空(その後は陣痛と、出産といろいろあり、覚えているのは病院に向かったときの青空だけ)。

長いようで短かった5年間。その間に彼はどんな世界を見ていたのだろうか。親は子に育てられる、というけれど、まったくそのとおりで、自分の未熟さとひとつひとつ向き合わせられた5年間だった。自分に過度のコンプレックスや疎外感があると、それが直に虐待やニグレクトにつながってしまう、そんな地獄への落とし穴がぽっかりと、しかも身近に口を開けていることも身をもって感じた。

悪の連鎖を断ち切ることを目標にしてきたものの、気がつけば、自分と同じ風景を子供にも見させているのではないか、という疑問が浮かび上がる。一見すくすくと育つKを見ながらも、そんな疑問を日々抱いてきた

H幼稚園は絵を描くことを推奨している。何を描く、というより、感情表現の手段として絵を重要な位置においている。私は幼児期のさまざまな理由から、まったく絵がかけない。絵を描くことによって、自分の感情と向き合う手段となれば、本当にすばらしいことだ、とかねてから思っていた。なのでKが楽しんで絵を描いているのを見るのが、自分のことのように楽しい。今学期もたくさん芸術作品(?)をもって帰ったので、それを何枚か紹介します。

「とりとくわがた」「かまきりくわがた(?)」「あめ」だそうです!

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2006年12月27日 (水)

掃除苦手な私の苦しい毎日

幼稚園は20日でお休みに入り、私はすぐに大掃除モードに入った。…つもりだったのだが、なれない作業で一日でダウン、気持ちが悪くなってしまった。何せ、どこをどう掃除してよいのかもあまりよくわからない。松居○代師匠に弟子入りしたい。

混乱の理由を分析すると、とにかくさまざまな種類のものがあふれている、ということだ。まずは踊り、音楽関係の資料。これは簡単に捨てるわけにいかない。たまりにたまった楽譜、カセットMD、ビデオ等、特別な部屋が必要なぐらいだ。その上、私に重くのしかかっているのは踊りの衣装。これも処分するわけにはいかない。長年少しずつ、なけなしのお金をはたいて集めてきたもので、思い入れも深い。しかしこれが生活のスペースを侵略しつつある。

そしてKのおもちゃ。以前もお話したと思うが、Kが通っているH幼稚園では既成のおもちゃをまったく使っていない。なので、家にあるおもちゃもどんどん出番が少なくなっていき、今ではまったく使わないものばかり。埃はたまるし、貴重な場所も取る。でも奴は奴で思い入れがあるらしく、絶対に捨てたがらない。「捨てられない女」の私もその心情は痛いほど理解できる。先日Kの古い雑誌をまとめて捨てようと思い、そっとほかの処分する本と一緒に重ねておいた。しかし紙のごみを出す日がくる前にKに見つかってしまった(というか、かくしてあったので、私も捨てるのを何週間か忘れていたのだ)。「あれ、俺の本がこんなところにあった。なんでだろう、やれやれ」と独り言を言いながら、また部屋に持っていった。「しまった」と思ったものの時すでに遅し。

こんなことを繰り返していくうちに、ゴミ箱化していくわが部屋、我が家。捨てられる人間の存在は貴重だ。大体にして男性は思い切りがよいのだろうが、悪いことにうちはシングル家庭なので、イニシャティブをとる人がいない。私ががんばるしかないんだけどね。

そんな中ぶったおれた私を救ってくれたのが、23日のガドガドクラブのパーティー。私は踊りに行ったのだけれど、その後、たらふく食べてきました。料理大会のごとく、次々に作っては食べる、こういうパーティーもよいものですね。しかも大好きなエスニック料理ばかり。料理の過程をみることができるので、料理下手な私もいくつか貴重なヒントをゲットしてきましたよ!

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2006年12月22日 (金)

幼稚園-異年齢、それとも年齢別のクラス?

幼稚園は昨日で終わり。しかし息子のKは最後の2日間、登園拒否。

その理由は、いろいろあるらしく私も定かではないが、ひとつは年齢別のクラスがいまいち居心地が良くないかららしい。以前もお話したと思うが、H幼稚園は縦割りのクラスを採用している。ただ、この何ヶ月かの間は年齢別のクラスに分かれていた。

この年齢別のクラスでいろいろ企画して、「子供が考える行事」もやったわけだが、実はこの年齢別のクラスは一部の子供には不評だ。

考えてみれば、普段の人間の係わり合いの中では異年齢の人々が集まるのが当たり前で、学校のように年齢別に別れるのは、効率的な学習効果を追求するためだろう(少なくとも、それがひとつの理由だろう)。しかし、このような同質の集まりは自分と違うものを排除する傾向にあるような気がする。私がH幼稚園を選んだ理由のひとつは縦割りのクラスを採用していることだった。

さて、なぜ同年齢のクラスが一部で不評かというと、子供はそこまで自分が感じていることを表現できないので定かではない。ただ、縦割りのときの子供たちの様子を観察していると、年齢の低い子供たちは年上の子供がいると安心するようだ。年上の子供は自分より小さい子供の面倒を見たり、世話を焼いたり、小さいなりに小さい責任感というものを身につけているようだ。小さい子にとって大きい子は憧れの的だ。「○○君はすごいんだよ。もう○○できるんだよ」と、報告を受けることが多い。

私も小学校に入ったばっかりのときは、コートのボタンをいつもちぐはぐにかけていた。あるとき6年生のお姉さんが「ボタンがずれているよ」と直してくれたことがある。そのときそのお姉さんがとても大人で素敵に見えた。それ以降6年生になることに密かな憧れを抱いていた。

小さなことだが、身近に目標にする人がいることは子供にとってとても大事だと思う。

さて、プチ登園拒否のKだが、「来年からはまた花組(縦割りのクラス)に戻るのよ」と、いうと「やったー!」と喜んでいた。これで問題解決だといいのだけど。

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2006年12月16日 (土)

育児の落とし穴-過保護な子どもの作り方

理想と現実とは大きく食い違うことがある。特に育児に関する限り、自分とはまったく違った個性と向き合うのだから、自分の価値観を押し付けることの無意味さを日々感ずる。

もちろんそれは当然のことなのだが、あまりにも自分の理想や信念と相容れないものであると、ちょっとあせりを感じてしまう。

かねてから私は子どもを過保護に育てたくなかった。親の役割は個性を持った子どもをその個性を尊重しながらも、独立した社会人へと育て上げること。その中に自分のエゴや自己実現を託してはならないこと。まあご立派(?)な考えなのだけど、これを実践することはなんと難しいことか。そしてちゃんと落とし穴も用意されている。

大きな落とし穴は「親の都合」だ。過保護に育てないためには忍耐が必要。そして待つことも。子どもは自分のペースでしか行動できない。でも親の都合で行動するとき、親は「待ったなし」だ。たとえば朝、幼稚園に行くのならともかく、親の都合でどこかに子連れで出かけなければならないとする(仕事に行くために子どもを預けるときも同じなのだが)。奴は自分が優位な立場にいることを理解している。なぜって、自分が急がなければ困るのは自分ではない、親だからだ。だからもともと好きではない着替えや外出の用意をまったく急がず、たらたらとやる。親はあせる。奴は自分の思う壺だということを認識している。パワープレイだ。

親は早くしなさい、と怒鳴るが、そんなことはどこ吹く風とやら、奴はマイペースでのらりくらりしている。待ちきれない大人は洋服を子どもの手から奪い取り、子どもに着せてやる。そして普段から時間のかかる靴も履かせてやる。これを何度か繰り返せば過保護な子どもの出来上がり。

家を出ようという段になって「やっぱり行かなーい」なんて言い出す。親は冷や汗を流す。最後の手段「鞭と飴の飴作戦」だ。「あとでチョコレート買ってあげるから」。この時点で親は完全に理想を捨て去る。これを何度か繰り返せば過保護な子供の出来上がり。

明日は仕事があるので、子どもが今日風邪をひいたらたいへんなことになる。そんな親の都合があれば、すぐに守りの体制に入る。本当は外で遊ばせればいいのに、家でテレビを見せていたほうが安心。本当なら薄着のほうが健康なのだけど、怖いのでもう一枚重ね着させる。これを何度か繰り返すうちに、過保護な子どもの出来上がり。

子どもを生む前は、なぜ過保護な子どもがたくさんいるのか、わからなかった。愚かな親だ、と思っていた。そして私も見事なくらいに、愚かな親の仲間入りをしてしまった。

子育てって一筋縄ではいきません。

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2006年12月13日 (水)

幼稚園はイベント目白押し

日曜日には「子供が考える行事」というイベントがあった。子どもは年齢別のグループに分かれて、町を作った。息子のKは「森のまち」(ん、よく考えるとこれって矛盾している?)のメンバーでかぶとむしになった。子供たちは思い思いの衣装を作り(女の子の中には針で裁縫する子もいる)、なりきって踊ったり、歌ったり。

子どものころの一年の差は大きくて、Kのグループ(普通の幼稚園だと年中にあたる)は混沌とした中にも形ができ始めている、というかんじ。もう一年上のグループは完成度が高い。なかなか発想が豊かで面白かったです。でもゼロから何かを作り出す、ということは子どもとて簡単にできることではなく、やはり保育者なり親なりが子どもの取り留めないアイディアをまとめ、現実化していく手助けをしなければならないな、と感じた。

昨日は人形劇を鑑賞した。今日は落ち葉を拾いに行った。明日は拾ってきた落ち葉で焼き芋をするらしい。焼き芋、懐かしいですね。焼き芋を市街地でしなくなってから何年たつのだろうか。北風が吹く中、焚き火の火で手を温めたのは、ずいぶん昔のことのようだ(うん、実際ずいぶん昔のことです)。そして明日はお母さんたちがリコーダーの演奏会をするそうです。

そして来週半ばで冬休みに入る。4月に入園してから、私も一生懸命やってきたつもりだけれど、4歳のKにとってはこの環境の変化はあまりにも劇的だったようだ。飛び切り楽しいけれど、自分の周りで何が起こっているかを把握するのに精一杯な8ヶ月だったに違いない。

私にも大きな変化があったように思う。子どもを通して、もう一度子ども時代を体験することができた。もう一度やり直すことによって、自分のトラウマやコンプレックスの源を少しではあるがポジティブ方向に変えることができたような気がする。そして何かクリエイティブなことをするときには子どもの気持ちに戻ると、割合すんなりと形が整うようになってきた。そういう意味で創作の原点を見るよい機会となった。

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2006年12月 1日 (金)

冬の空を見て反省

わかってはいながらなかなかできないことがある。先日息子のKを家においてバイトに行ったのだが、私が帰ってきたのは10時半、もうとっくに寝ていなければならない時間なのにKはあっけらかんとして、まだ起きている。帰ったとたんにむかついた私。なのにKは寝るどころか私が帰ってきたので話しをしたがっている。「僕をかまって、かまって」光線がびゅんびゅんと飛んでくる。それはわかってはいるのだが、疲れていて、しかも夕飯を食べていないので、さらにいらいらしてくる。

とにかくKを早く布団に入れた。Kは不服でべそをかいている。はあー、っと一息ついてご飯を食べた。寝て起きたらすっかり忘れているのならばよいのだが、子どもは決してこれで終わらない。それを重々わかっていながら問題を先送りにしている私は懲りない面々か。

次の朝、何事もなく順調に時が進む。問題が発生したのはまさに幼稚園に出発しようとしたとき。問題、というより傍から見たら晴天の霹靂のようなKのムードの変化。私の「早く靴を履きなさい」ということばに過剰反応、完全にふてくされてテーブルの下にもぐりこんでしまった。待つこと30分。どうにか出てきたKを抱っこした。

要は前の晩やっておくべきことを次の朝にやった、ということ。ということは子どもに必要とされていたときに対応していたら、Kも傷つくことなく、不満を持ち越すこともなかった。私とてそのくらいのことは経験上わかっているのに。あー、これがなかなかできないんだなー、と思いながら頭上を見上げると、真っ青な冬の空。青いキャンバスに白いクレヨンで子どもが線を引いたようだ。夕方にもう一度見てみると、今度はクレヨンがパステルカラーに変化していた。

これをKからのメッセージと受け止め、反省しました。とはいってもまたやっちゃうんだろうなー。ごめんなさい。

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2006年11月22日 (水)

幼稚園への秘密の近道!

幼稚園への送り迎えは自転車でやっているが、実は自転車では通れない近道がある。公園から森に入って、一山(?)越えていくのだ。雨が降った後、数日間はぬかるむので通らないようにしているが、昨日は暖かく、これから寒くなるので今年最後になるかもしれない、と思い近道を通って幼稚園のお迎えに行った。

家の近くの公園は紅葉が始まっていて、とてもきれい。

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そして森の中に入っていきます。子どもではなくとも、ワクワクする瞬間です。

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そして階段を下りたり上ったり。実際に歩くのはほんの少しだけだけど、森林浴効果は実感でき、頭はすっきり、気分は晴れやかになります。

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そして最後の写真は鎌倉山から眺めた江ノ島。富士山は雲がかかっていて残念ながら望めませんでした。つくづく鎌倉に住む幸せをかみしめた日でした。いつまで住めるかわからないので大切にしようと思った。Ts340238

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2006年11月20日 (月)

最近気になること

この間、息子のKに「知らない人についていっちゃだめよ」と、言ったら「知ってるよ、ついていったら殺されちゃうんでしょ」と、返した。背筋が寒くなった。事件に巻き込まれないよう、親は神経を使い、ちょっと脅しまがいのことを言うわけだが、なにも知っている人以外は全員殺人鬼だ、と理解させたいわけではない。そんな世界に生きる子どもは日々恐怖と隣りあわせだからだ。

数ヶ月前に電車で多摩川を通ったら「ここ知ってるよ。ここで女の子が殺されたんだよ。お母さんに突き落とされてね」と、言った。明らかに秋田での殺人事件のことを言っている。子どもは大人が考える以上に物事を理解している、と同時に時として物事を、疑問を抱かず、まるのまま受け止める面もあるようだ。良い言い方をすれば素直なのだ。情報を精査したり、ふるいにかけたりする能力はもっと大人になってから発達するようだ。

だからこそ大人は子どもに、見せたり聞かせたりするものに注意を払わなければならない。テレビもニュース番組だったら安心だと思っていたが、Kが秋田の殺人事件の情報を得たのは私が見ているニュース番組に他ならない。テレビの報道も最近はあまりにもセンセーショナルで、子どもたちがその善悪をもわからずに吸収しているとしたら、彼らが描く日本社会は恐怖に満ちたものになるだろう。事実最近の「いじめ」や「自殺」の報道にKは過敏に反応し、NHKのニュースでも「怖い」と、言うようになった。

それでなくとも子どもにとって住みにくい世の中なのだから、私はもっと明るいビジョンを見せたい、と思い、それを心がけているつもりだが、なんとも難しい世の中だ。

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2006年11月13日 (月)

エコ生活のさまたげ

子供服は95%くらいもらい物で済ませている。うちの子はあまり腕白ではないが、幼稚園では外遊びが多いので、少なくとも毎日2-3回は着替える。だから洋服も数が必要だ。上からお下がりが来るのはとてもありがたい。

でもお下がりにも問題がある。特にズボン。子供の独特の体型から、ほとんどのズボンにはゴムが入っている。これは男女にかかわらず同じだ。しかしこのゴムがとても緩みやすい。もう少し小さいころはサスペンダーをしていたが、さすがに4歳になるとあまり実用的ではない。それでゴムを替えようか、ということになるのだが、これが厄介。多くのズボンは幅広のゴムを使っており、そのままにしておいてくれたら助かるのだが、真ん中をミシンで押さえてあるのだ。なのでゴムを替えたかったら、まずこのミシン目を解かなければならないことになる。不器用で不慣れな私はこの作業に一時間くらいかかってしまう。

あー、なんでもっと簡単に替えられるように作ってくれないのかな、と思う。確かに真ん中をミシンで縫ってあると、ゴムがよじれにくい。でもうちには縫っていないものも数多くあり、それらはまったく問題がない。もしかしてこれって、わざとゴムを取り替えにくくしているってこと?この間の幼稚園の蚤の市でも、ズボンを買うとき、みなゴムをチェックしていた。ゴムがしっかりしていないとはけないから、とお母さんたちは一様に言っていた。わざわざゴムを取り替える時間のないお母さんは、「まだ生地もしっかりしているし、もったいないのだけど、買えば安いし」でゴミ箱にポイ、こういうことをみな経験しているのではないか。そしてこれは企業の思う壺なのでは。

声を上げるお母さんも多いだろうし、企業も良心的になってきているのだろう。最近買ったものは優良品が多いことに気づいた。たとえばこういうの。

かっこいいし、機能的。

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そしてこちらはゴムの取替え口がついています。これだったらものの10分でゴムが取り替えられます。本当に助かります!感謝です!

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2006年11月 2日 (木)

狭まる子供の世界観

最近子どもと日々接していて、やはり最近の子どもは変わってきている、と感じざるを得ない。多くの人が指摘していることだが、実際に子どもやお母さんたちと話す時間が増えるにつれ、このことをひしひしと実感している。

何も私の育った時代やその時代の環境が理想的というのではない。今の子どもたちのほうが、いろいろな面でずっと恵まれていると思う。でも「いまどき」の子どもを理解するためには、やはり私たちの子ども時代と比べてみることが必要だと感じる。

大きな違いのひとつは、子どもが幼児期に世界観を形成するプロセスだと思う。幼児は周りの人、そしてその人の言動を通して世界観を形成する。大人であればニュースを見たり、本を読んだりして世界の出来事を知るわけだが、子どもは直接接する人を通して、世界はどのようなものかを推察するのだと思う。私が子どものころには多くの人と接した。優しい人、厳しい人、怖い人、頼りになる人、そして頼りにならない人。不条理な人。何か質問すると喜び勇んで薀蓄を披露する人。風邪をひくと暖かくして寝ていなさい、という人。いやいや、薄着して乾布摩擦をしなさい、という人。泥んこになって遊ぶと、汚い、と怒る人。腕白でよいわね、とほめる人。親戚が多ければ、中には立派なおじさんがいれば、責任感がなかったり、何をやっても失敗する、ちょっと困ったおじさんもかならず一人くらいいる。

人間というのは百人百様だ、だから世界もその延長だ、と幼児期に学んだように思う。

現在の子どもが日々接する人は非常に限られている。その結果、子どもの世界観の形成に一番の影響を与えるのが母親、ということになる。しかし母親だって一人の人間、だれにでも長所もあれば短所だってある。しかも母親は日々の仕事に追われているので、必ずしも広い世界観を子どもに提示できるとは限らない。そもそも一人の人間が完全に近い世界観を持つことなど不可能だ。昔の母親の精神的役目といえば、ベースキャンプのようなもので、何かがあったら戻ってくる、という場所だった。たとえば外で遊んでいて転んだり、年上の子どもにいじめられたり、そんなことを訴えにきて、「よしよし」と頭をなでられ、精神的に安定したらまた冒険に出かける、そんな場所だ。母親も子どもがいつもべったりしているわけではないので、必要とされているときには、仕事の手を休め、子どもの言うことを聴いてあげる、そんなゆとりがあったような気がする。今のお母さんは大変だ、掃除、洗濯、ご飯の用意、育児はもちろんのこと、お箸の持ち方も、マナーも、道徳も、勉強も、すべて教えなければならない。子どもの肉体的、精神的ケア、そのすべてを請け負っているのだから。でもだからこそ子どもが偏ってしまうのではないか。

今の子どもの世界観はいびつだ。これは虹が7色の色から成り立っているのにもかかわらず、その中の一色しか知らないようなものだ。

最近は異文化理解の重要性が指摘され、積極的に子どもたちに広めていく動きがある。もちろんこれは歓迎すべきことだし、私もそのようなイベントに参加することがある。でも、海外旅行よりももっと近くに異文化がある。昔はほかの人の家に泊まったり、遊びに行ったり、もっと子供が自由に日常的にいろいろな家を行き来していた気がする。人のうちに行くと少なからずもカルチャーショックを受けることが多かった。時には価値観が逆転していることさえある。家庭は独自の文化圏を形成していて、子供ながらに「こんなのもありなんだ」と、納得することが多かった。

幼児期に形成される世界観が狭いと、異物を排除する、という機能が働いてしまうのではないか。グローバル化で世界が狭くなっている時代に、皮肉な展開だ。でもいじめなど、子供をめぐる多くの問題はこの現象の延長上にあるような気がするので、子供に接するときには、自分の言動が多大な影響を子供に与える可能性がある、と肝に銘じている。

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2006年11月 1日 (水)

くわがた危機一髪!

今日は幼稚園がお休み。来年入園する子どもたちの願書受付の日なので。天気がよいので、とにかく外に出るのが一番。気持ちよく外出できる日はこれからどんどん少なくなるだろうから。

本を借りようと思って図書館の前を通るとかわいいビーグル犬がつながれていた。これを見逃すわけのない息子のKは早速近づき、遊んでいる。するとどこから来たのか、小さいのこぎりくわがたが歩いてこちらに近づいて来るではないか!するとビーグル犬が見つけて噛もうとしている。あーっ、と叫んでKに犬を押さえさせ、くわがたをつかんで、逃がした。今回は写真を撮りました。いつものようにちょっとピンボケなので、よーく見てください。_167 必死に威嚇しています。ごめんね。

さて庭のほうですが、ジャスミンたちがけなげにまだ花を咲かせています。クリスタルジャスミンとマダガスカルジャスミンはもう時期が終わったらしく早々にリタイアしてしまいましたが、マツリカは咲いています。今年最後の花でしょうか。たくさん花を咲かせてくれて、ありがとう。一番寒さに強いのはナイトジャスミン。花も咲いていますが、つぼみもまだついています。_156 _157 _158

ついでに唐辛子もまだ元気です。_159

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2006年10月30日 (月)

しいの実みっけ!

幼稚園でしいの実を拾ってきました。木の名前をあまり知らない私ですが、幼稚園のお母さんに詳しい人が大勢いて、木や木の実の種類、食べられる野草などを教えてもらえます。

しいの実、昔食べた記憶がある。なつかしい。

さっそく写真をぱちり。これは炒って、ご飯に入れるとおいしいのではないか。試してみます!

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週末は東京と川越に行っていたので、またまた更新がおそくなってしまったが、先週の金曜日は遠足で鎌倉中央公園に行きました。その日たまたま誕生日の子供がいたので、草や木の実でケーキを作りました。とってもきれい!

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暑くもなく、寒くもなく、とても心地のよい日でした。こんな日って結構数少ないのよね。

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2006年10月16日 (月)

どこまでも広がる子供の想像力

Ts340137 Ts340138 これは一見ごみに見えますが、実はK愛用の「すごい武器」です。素材は牛乳パック、トイレットペーパーの芯と毛糸少々、それだけです。Kによると、赤く塗ってある部分は火炎、青の部分は水の武器で、いわば「火責め、水攻め」両方OKの使えるやつです。もちろんダイナマイトも内蔵してあり、よく考えると、ダイナマイトを爆発させてしまうと、武器が壊れてしまうけれど、まあ細かいことはよいとして。しかももっとすごい機能を内蔵しています。トイレットペーパーの芯の部分はスパイカメラになり、もちろん録画、録音もできるらしいです。最近ではおもちゃのクワガタの飼育箱にもなっているみたいです。とにかく機能満載、まだまだ秘密が隠されているようです。

これを見て、子供は面白いな、と思われましたか?それともなんかちょっと子供がかわいそう、もっとちゃんとしたおもちゃでも買ってあげれば、と思いましたか?もしかしたら、両方ですか?自分の子供時代を思い出しましたか?

H幼稚園では既成のおもちゃをまったく使用していません。おもちゃの素材となるもの(牛乳パック、ダンボール)などを保護者が提供し、それを使って子供たちが自由な発想でいろいろな遊具を作ります。

個人的に理念には大いに賛同できましたが、おもちゃが巷に氾濫する現代に生きる子供達がこれで楽しむことができるかどうかについては少し疑問でした。でも、子供たちを見ている限り、あまり心配は要らないようです。子供の創造の翼は私たちが思っている以上に大きく、たとえ素材が牛乳パックでも、彼らの想像力豊かな目を通せば「すごい武器」に変身するのです。そして自分で作ったものは自分の想像力が行き着くところまで進化していきます。この万能武器も最初はただの爆弾だったのですが、だんだん新しい機能が増して、現在に至り、これからどういう風に進化するのか私にはちょっとわかりません。既成のおもちゃだと、この進化の過程が欠如しているような気がします。

思えば、日本もちょっと昔まで、そして世界のほとんどの国では今現在も紙の素材すら子供の手には渡らない状態です。だからといって、彼らは気の毒なのか、というとそれはまったく間違っています。おもちゃがなくとも、子供は楽しめます。手遊びや体遊びは世界のどこでも見られるし、それによって子供は互いとの関係を築き上げます。

ところでおもちゃに関していつも興味深く感じるのは、インドネシアでは子供のおもちゃの取り合いがまったく見られない、ということ。まだわからない年下の子供がおもちゃをつかむと、年上の子供はその子のなすがままにする、というのが習慣みたいです。年上の子供はかわいそうだな、と感じるけれど、自分も年下のときがあったので、それはしょうがないのかな。

この現象をしっかりと観察できたのはKをインドネシアに連れて行ったとき。彼はまだわけのわからない欲求のまま行動する正しい(?)日本の2歳児。インドネシアの正しい2歳児との違いを興味深く観察しました。日本代表のKはどこに行ってもおもちゃをつかみます。当然友達が持っているものでもかまわずつかみます。不思議なことにインドネシアの2歳児はこれもあまりしない。小さいときから我慢することを教えられているからなのかしら。そんななかでKはおもちゃを取り捲り、ほかの子はちょっと唖然としてみているものの、しばらくするとおもちゃを集めてきてKに渡している。そんな独占欲丸出しのKを見ているのが面白いようでした。

子供はどこでも同じだろう、と考えているとどうもそうでもないみたいです。文化や習慣というものは、われわれが考えるよりも早い時期に子供に浸透するのかな、と思いました。

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2006年9月 5日 (火)

幼稚園始まる、そしてニンニク唐辛子味噌

昨日から幼稚園が始まった。先週末に駆け込みで江ノ島水族館に行ったくらいで、夏休みらしいことをまったくやっていなかった。Kにしてみれば幼稚園の友達にあえるのが待ち遠しいようだ。夏休みの間に新調したリュックに荷物を自分で入れて、背負ってみたり、結構心待ちにしていた。

昨日幼稚園に行ってみて、来週の半ばまでは午前中保育と知り、ショックを受けた。つまり行ったらすぐ帰ってくる、ということで、その間ほとんど仕事ができない。

でも子供にストレスを与えない、ということではこのような方法が望ましいことはとてもよく理解できる。久しぶりの幼稚園で泣いている子供もいる。Kも2時間楽しんだ割には、ほかの子と遊ばすすぐ帰るといい、その上不機嫌になり、ぐずってしまった。Kは普段あまりぐずらないが、くたくたに疲れているとき、病気になる前などきまってぐずる。幸い熱は出さなかったものの、家に帰るなり、ぐっすりと寝てしまった。たった2時間の保育だったのに。

子供は感受性が強いし、大人のようにエネルギーをセーブすることも知らない。意外とストレスを受けやすいのだ。アメリカの学校はこの点を良く考慮していて、儀式(セレモニー)的なもの(たとえば入学式など)を廃止し、学校が子供にとって敷居をまたぎやすい場所にするようさまざまな努力をしている。ここに子供の満足感と大人の満足感とのギャップが見られるような気がする。

さて、今日は防災訓練の一環として、非常時のお迎えの練習をした。とはいっても親が皆10時半に家をでる、というものだ。私はチャリなので、15分程度でついてしまう(非常時にチャリに乗れるかどうか、という疑問は残るが)。遠い人はこんなとき大変でしょうね。子供たちも防災頭巾をつけたり練習したみたいだが、Kはまったく何をやっているのか、理解していないよう。大丈夫だろうか・・・

それにしても残暑厳しい今日この頃、体力をつけなければならない。ニンニク唐辛子味噌を作った。作り方は簡単。ニンニクのみじん切りをいためて、唐辛子も加える。その後味噌を炒る。砂糖、みりん、酒を加えて、炒って水気を飛ばす。今日は赤味噌を使いました。これを食べると食が進みます。

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2006年7月11日 (火)

幼稚園話(好きなものしか食べない子供たち)

早いものでもうすぐ夏休みだ。暑いこともあり、とうとう今日でお弁当は終わった。あっという間に終わった感じがする。H幼稚園は、子供が好きなものをお弁当に持たせてください、という方針だ。私はホッとした。小学生のころ、給食が食べられなくて、教室に残って食べさせられたのがまるで拷問のようで、まだトラウマになっているからだ。

なにしろあのころは「○○を食べなければ、大きくなれない、頭が良くなれない」など、食べないとまともな人間になれないような、脅迫めいたことを言われた。今になれば、蛋白質も炭水化物も繊維もいろいろなものから摂取できる。これでなくてはならない、というものはなく、なんにでもオルタニティブがある、ということを知っている。

子供は不快なものを避け、快感を得ようとする本能をもっているらしい。オムツが汚れていたり、おなかがすいていたりすると泣く、などがその最たる例だろう。なのでまずは快感を多く経験させることが「生きること=楽しいこと」という感覚を根付かせることになるのだろう。私は給食のトラウマがあって、食べることを楽しい、と感じたことがほとんどない。どちらかといえば面倒くさいこと、食べなければお腹がすくからしょうがないから食べる、というかなり消極的な「食」に対する態度を持っている。食べることに人生の楽しみを見出している人々にとっては、つまらない人生に映るであろう。食べることによって、いやなことを忘れたり、よしまたがんばろう、というやる気が出たり、おいしいものを食べることを心待ちにしたり、食べるという行為は人間の根本的な活動ゆえ、「生きる」という行為にさまざまな色合いを与えるものだと思う。

だから私は自分の子供が食べることによって人生が豊かになってほしいと思っている。

しかし、あのNHKの番組は多くの人に衝撃を与えた。「あの」と書いたのは、見ていないのでタイトルがわからないこともあるが、それが放映されてから、幼稚園でももちろんのこと、知人のほとんどが話題にしていたからである。たしか「好きなものしか食べない子供たち」というタイトルだったと思う。

強制的に食べさせるのは逆効果だということは痛いほどわかっている。だからといって好きなものしか食べない、というのもあまり想像力がなさすぎないだろうか。少し年上の年代の人は親が過保護だから、またわれわれの時代は食べ物がなかったから何でもおいしく食べたのに、と主張する。でも今の子供たちにそれを言ってもなかなか通じない。どこにでも食べ物は氾濫しているし、どんな食べ物でも手に入る。ゆえに常にマンネリ状態だとも言える。

そこらへんの兼ね合いがまったくわからない。これも豊かさゆえの貧しさなのだろうか。

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2006年6月24日 (土)

年長さんのお泊り

来月、年長さんに当たる子供たちが幼稚園でお泊りするそうです。楽しそう!

この間園庭にはためいていたTシャツはお泊まりように一人一人染めた「myTシャツ」だそうです!そしてドラム缶風呂に入るための脱衣所をトンカチやのこぎりを使って、子供たちが自ら建設中だとのこと。そうか、あの庭の不思議な建造物は脱衣所だったのね。自分たちで企画したものは、大人の押し付けよりきっと楽しさも、ワクワク感も倍増することでしょう。

H幼稚園は年齢が違う子供たちがひとつのクラスを構成する「縦割り」だが、時々同じ年の子供で集まり散歩なり、ものづくりなどするようだ。最近はこの「お泊り」に向けて年長さんたちが集まって、いろいろ準備をしている。

Kはまだ年中なので、年長さんの活動をうらやましそうに見ている。

最近Kは庭での砂遊びに夢中だ。砂で山を作り、真ん中にカルデラ湖(?)のように穴を掘り、そこに水をどんどんためていく、そしてかなりの量をためたら、ちょっとふちを決壊させ、水が川になってジャーと流れ出す。途中でダムを作って水をせき止めたり、時にはなるがままに流れるのを眺めたり、とにかく飽きないで何度も何度もやっている。これは私も子供のころにやりました。確かに時間を忘れるほど楽しかったです。

Kは家に帰ってもお風呂で水流し遊びをやっている。洗面器を江ノ島に見立てたり、流されていくアヒルのおもちゃを救出したり、お風呂から出すのが一苦労だ。

子供の時間は大人の時間より基本的にゆっくりと、でもさまざまなテンポで過ぎていくのだなー。そういえば、以前にもインドネシアの時間感覚について同じようなことを書いた。

もしかして、時間を時計のように機械的に測るのは現代人の(特に日本の)特徴ではないか。

私も毎日が時間との戦いだが、少なくとも子供には自分の心と体の要求にマッチするような時間をすごしてほしい。これは矛盾しているかな。

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2006年6月13日 (火)

梅の収穫

今日は幼稚園で梅取りを行った。普段どおりの幼稚園児と、準備万端、やる気満々の保護者達とのコントラストが面白かった。やり方はかなり原始的だ。長い竹の棒で梅をたたいて落とす、のみである。竹の棒を持って落とすのが保護者で、落ちてきた梅を拾うのが幼稚園児。確かに大人のほうが楽しいわ、これは。結構はまりました。最初は園内の梅を落とし、次に外にある大きな木の収穫に取りかかった。園長自らが木に登って竹ざおを使って高い場所にある実を落とすと、雨のように降ってきて、時々直撃されるのだが、おかげでかなりの量が収穫できた。

このような方法で落とした梅はコンクリートに落ちると割れてしまう。割れた梅は梅干には使えないので、ジュース用となる。その後園児たちは梅を洗って、砂糖につけ梅ジュースを作ったらしい。

それとは別に保護者のグループは今回収穫した梅を加工して、バザーに出品する梅干やその他の製品(ジャム?)などを作るらしい。何ができるか楽しみだ。

おみやげ(?)で梅をたくさんもらってきたKと一緒に梅ジュースを作ろうと思ったものの、白砂糖が切れていて、あわててコンビにに買いに行った。2人で梅にフォークで穴を開けて、梅と砂糖を交互に入れた。幼稚園もう経験済みのKは率先して作業を行った(梅にぶちぶち穴を開けるのが楽しいようだ)。おいしくできると良いな。

おばあちゃんが元気だったときに毎年梅干を作っていた。子供ながらに大変な作業だと感じた。でも今日梅の収穫を見ていて、梅干も作ってみたいな、と感じた。Ume_juice_8

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2006年6月12日 (月)

クワガタと絵本

先日幼稚園から帰る道すがら、歩道でクワガタを見つけた!Kも私も大喜び。ムチキング(ムシキング)が大好きなK。しかし奴は怖くて触れない。歩道にいると踏まれてしまうかもしれない、とKは心配顔。しょうがなしに私が拾って木にくっつけてあげた。それにしてもこのクワガタはどこから来たのだろうか?確かここら辺にはクヌギの木があったような。Kが家につれて帰りたい、と言わなくて良かった。

そして数日後、絵本にあまり興味を示さないKが幼稚園で絵本を借りてきた。題名は「のこぎりくわがた」。のこぎりクワガタが木の蜜を吸っているうちに、木からおっこってしまい、しばらく気絶していたが、やっと目を覚ましたもののひっくり返ってしまっていてなかなか起き上がれない。足をばたばたしているうちに葉っぱにつかまり、よいしょ、と元に戻ることができた。そして葉っぱの陰に身を潜めた、という内容だった。

これを読んでKは大満足。「あのクワガタも木からおっこったんだ!」と大いに納得がいったようだった。

H幼稚園では絵本を子供の発達に重要なものと位置づけている。「絵本の部屋」と呼ばれる図書館があり、子供は自由に本を借りられるようになっている。Kは本屋に行っても持ってくるものはいわゆる乗り物系の本ばかりで、とうてい絵本好きとはいえなかった。この「のこぎりくわがた」がきっかけとなって少しずつ本を借りてくるようになった。今読んでいるのは「バムとケロ」の絵本。これはかなり有名なシリーズらしく、遊びに来ていた中学生の姪っ子が「これはうちにもあるよ」と言っていた。本を通して世界が広がるって良いな。

ちなみに幼稚園では親も本が借りることができる。そして子供に「あの本を借りてきて」と言わないように何度も注意された。子供の興味や関心はプライベートなもので、それに親が干渉したり影響を及ぼしたりすることは良くないと考えているようだ。確かに私ならばあの「のこぎりくわがた」は借りなかっただろうな。

PS.Kは一人で「ムチキングごっこ」をよくやるが、そこに登場する「ニョーキ・クワガタ」はどうやら「のこぎりクワガタ」のことだったらしい。いまだにKの言っていることが、ずっと後になってからやっとわかることが時々あります。

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2006年6月 8日 (木)

少子化ってホント?

少子化に歯止めが利かないという。一人の女性が生涯に産む子供の数の推計値である合計特殊出生率が昨年度1.25となり、5年連続で過去最低を更新した。

私はこのニュースを少し不思議な気持ちで聞いた。なぜならH幼稚園に関する限り、皆子沢山だ。登園には小さい弟や妹がベビーカーで一緒に来るし、何か活動をする場合にも小さい子供たちが必ず、自然な感じで参加している。町で、社会で、子供の存在が感じられない、といわれて久しいし、子供をつれて歩くと珍しがられたことが良くある。でも幼稚園が始まってからは、毎日大勢の子供の存在を常に身近に感じていた。

よく考えてみれば幼稚園の母親の最低出生率は1だ。子供がほかの場所より集中しているので、当然だといえば当然だ。言い換えれば、産んでいる人はどんどん(!)産んで、同時に一人も子供を持たない決断をする人もふえているということなのかもしれない。H幼稚園の特殊出生率だが、私に見た感じは2.5人くらいなのではないか、と思う。もちろん統計を取ったわけではないし、皆に聞いてみたわけではないけれど、少なくとも全国統計よりは当然ながらずっと高いことは明らかだ。

この間テレビで『ネオ子沢山』という、4人以上子供を持つ人々の特集をやっていた。つまりお金より何より、子供が一番の財産だ、と考える人々が増えている、という話だった。生活水準は高くはないものの、和気藹々と暮らすその姿はほほえましくもあったし、誇らしくもあったし、日本にいまだにはびこる拝金主義を吹き飛ばすだけのパワーがあり、このような人たちがいる限り日本の未来も大丈夫ではないか、と希望が持てた。この人たちを見ていてインドネシアの人々を思い起こした。

インドネシア人は子供が大好きだ。あまり物やお金を持たないけれど、子沢山で、とにかく子供をかわいがる。そしてあまり心配しない。正しい行いをしている限り、神様がいつも守ってくれる、よい種をいつも蒔いていれば、いつか実のなるときが来ると信じているからだ。傍観者の私から見ていてもその通りで、皆みんなどうにかやっている。親族、友人、ご近所の結束も固い。

彼らに比べると日本人は心配性だ。子供を産み育てる、という責任を軽く考えるべきではないが、起こりうるすべてのネガティブなこと(子供が犯罪の加害者や被害者になる、教育費は1000万円、等)の側面ばかりがクローズアップされて、その結果二の足を踏む人も多いのではないか。

H幼稚園の子供も親も結構楽しそうです。価値観を転換すれば、きっと楽しくなるはず、と思うのだけど…

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